福浦和也



1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:33:52.41 ID:9q3AUt7Q0
2013年10月23日 12:00gooニュース

今年のドラフト会議が近づいてきた。ドラフトにはさまざなドラマがつきものだ。
ここでは、ドラフト会議で一番最後に名前を読み上げられた選手、つまり、プロ野球選手になれる人間と、
なれない人間の境目にいる「ドラフト最下位指名」された選手に焦点を当ててみたい。
最下位で指名された人物は、いったいどんな野球人生を送っているのか。
今回は、史上最強のドラフト最下位・福浦和也(ロッテ)の野球人生を辿る。
以下は、野球専門誌『野球太郎No.006 ?2013ドラフト直前大特集号』より、同誌ライター・村瀬秀信氏の記事を抜粋した。(野球太郎寄稿)

引用元: ・「最下位指名」ドラフト会議で最後に名前を呼ばれた男の人生?1993年ロッテ7位・福浦和也 

2: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:34:08.94 ID:9q3AUt7Q0
9月9日、QVCマリンフィールド。埼玉西武ライオンズ対千葉ロッテマリーンズの一戦は「埼玉VS千葉 ライバルシリーズ」と銘打つ県の威信を掛けた戦いの最終戦。
 2対2の同点で迎えた7回裏、千葉ロッテの攻撃は1死二塁。この勝ち越しの好機に代打・福浦和也が告げられると、ライトスタンドはこの日一番の大歓声に沸き返った。

福浦は埼玉西武・岡本洋介の外角高めに浮いたストレートを逆らわずに流すと、打球はライナーでレフト前に落ちる決勝タイムリー。
 今季から始まった、この埼玉VS千葉のライバルシリーズは“千葉の誇り”と謳われる福浦の現役通算1870本目の安打で幕を下ろすこととなった。
「9月9日だったから打てたのかな」
 試合後にそう言って笑った背番号「9」。かつて“幕張のケン・グリフィーJr.”と呼ばれ、現在も“幕張の安打製造機”など、数々の異名を持ち、マリーンズの魂ともいえる大選手となった福浦は、かつて背番号「70」を背負う投手であり、ドラフト最下位指名選手であった。

3: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:35:18.04 ID:9q3AUt7Q0
「コーチかよ!」と野次られる背番号

「僕は自分がプロに入れるとは思っていませんでしたからね。3年生の時の夏の千葉県予選も3回戦で野田北に負けていましたし……今思えば、僕が指名されたことも、その前年に地元に球団が移転してきたということが大きかったんじゃないかと思いますよね」 福浦
殊勲打を放った翌日のQVCマリンフィールド。首位楽天との決戦を前に、福浦は20年前のドラフト会議をそう思い起こした。
 1993年。プロ野球界に谷沢健一(元中日)、掛布雅之(元阪神)など左の強打者を輩出してきた名門・習志野高校の4番でエースを務めていた福浦の下には、前年に川崎から千葉へ移転してきたロッテ球団のスカウトが、度々挨拶に訪れていた。
「でも、指名を確約してくれるような選手じゃなかったですし、僕も『もしかしたらプロに行けるかも……』ぐらいの感じでしたからね。夏の大会に負けた後も、野球のない生活をエンジョイしていましたし(笑)」

11月20日。新高輪プリンスホテルで行われた第29回ドラフト会議は、この年から大学生・社会人に限り逆指名権が認められるルール改正が適用されることで、これまでとは違った緊張感を漂わせていた。
 すでにこの日までに目玉候補だった関東学院大の河原隆一は横浜、青山学院大の小久保裕紀は福岡ダイエー、三菱重工横浜の石井貴は西武、NTT四国の山部太はヤクルトをそれぞれ逆指名。
 ドラフトの根本を揺るがすこの逆指名制度の導入により、ドラフト制定後、初めて重複がない年となった。
 その反面、中日の1位指名、豊田大谷の平田洋に高校生で1億円の契約金を出すなど、上位指名者の契約金は高騰し、各球団の財政を逼迫。有望選手には下交渉での争奪戦が激化した。
 そんな中、千葉ロッテは、“恋人”とまで言われていた神奈川大の渡辺秀一をドラフト直前で福岡ダイエーに奪われ、NTT東北の左腕・加藤高康に1位指名を変更。

4: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:35:56.10 ID:9q3AUt7Q0
そんな新人選手の状況とはまったく無縁だったのが、千葉ロッテのドラフト7位。全体の最下位となる64番目で指名された習志野高校の左腕投手・福浦だった。
「指名された時は、学校で練習していました。最下位ですから、もうだいぶ遅い時間で、グラウンドで『ロッテに指名された』と聞きました。そりゃ嬉しかったですよ。指名されればどこであろうと行くつもりでしたけど、やっぱりロッテは地元の球団でしたからね」

93年、マリーンズがドラフトで指名した新人選手は1位加藤高康(NTT東北)、2位には「千葉が好きだからロッテに行きたいです」と高校生ながらロッテを逆指名していた、拓大紅陵の立川隆史。
3位に大塚明(別府羽室台)、4位中山雅行(熊谷組)、5位諸積兼司(日立製作所)、6位小野晋吾(御殿場西)、そして7位の福浦和也と、今になって振り返れば、ドラフト史上稀に見る下位指名の当たり年となった。

6: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:37:07.51 ID:XOl/vZBAd
>>4
これほんと当たりドラフト

5: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:37:01.78 ID:9q3AUt7Q0
 この年入団した高校生に与えらえた背番号は立川が「52」、大塚が「65」、小野が「63」と全員大きな番号だったが、7位の福浦に与えられた背番号は「70」。文字通り支配下登録選手枠70名の最後、という扱いだった。
「自分がその年のドラフトの最下位指名だということは、特に気になりませんでした。それよりも“プロ野球選手になれた”という喜びの方が大きかったですからね。ただ、背番号の70番はやっぱり重かったですよ。
当時は今みたいに背番号3ケタの育成選手もいないし、選手なら60番台が最後。それが70番台だから、試合でも『オマエ、コーチかよ!』ってよく野次られました(笑)。
 ただ、他球団に指名された同級生を見ると自分との力の差はやっぱり感じましたからね。
甲子園に出ていた育英の大村(直之/近鉄3位)や宇和島東の平井(正史/オリックス1位)、大宮東の平尾(博嗣/阪神2位)、PLの松井稼頭央(西武3位)。それと、2位で指名された立川は、彼らが甲子園で準優勝した2年生の時に夏の千葉県予選で対戦しているんです。
その時、僕が守っていたライトを越える物凄いホームランを打たれたんですけど…体はごついし、打球は凄いし、もう、バケモノだと思いましたよ」

7: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:37:57.34 ID:9q3AUt7Q0
入団交渉にあたり、福浦は担当の伊達泰司スカウトに「左ピッチャーは数が少ないから、すぐにではなくても出番は必ず来る。3?4年後、1軍で投げられるように、下でしっかり土台を作ってくれ」という言葉を貰い、しっかりと胸に刻んだ。
「だから地道に努力を続けていけば、数年後には必ず1軍で投げられる日が来る。
 マリンのマウンドに上がって『一番下から這い上がって来たぞ!』と言えるように頑張らなきゃならない。
 そう信じていたんですけど……現実はそんなに甘くなかったですね」

8: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:39:10.54 ID:9q3AUt7Q0
◎遅かれ早かれ「×」の選手だった

1994年。千葉ロッテマリーンズに入団した福浦は、いきなり肩の故障に悩まされ、ファームでも投球練習がほとんどできない状態に陥っていた。

 そんなプロ1年目のシーズンが開幕した直後の練習日。午前の練習が終わったランチ休憩の際に、福浦は同期のドラフト6位小野晋吾と共に、当時2軍打撃コーチを務めていた山本功児にグラウンドへ呼び出される。
 誰もいないグラウンドに行った福浦と小野は、山本に「打ってみろ」と、強制的にバッティングケージに入れられ、マシンを相手にフリーバッティングをやらされた。
 結果的にこれが運命の分かれ道となる。快打を連発する福浦の打撃に、傍らで見守っていた打撃コーチのハートは見事に射抜かれてしまう。

当時の高揚した思いを、山本功児は回想する。
「入団当時の福浦は体も細くて弱々しく、練習も満足にできない状態だったんです。
 ただ、バッティングがいいという噂を聞いていたので、一度見てみたいと、打たせてみたんですけど……素晴らしかった。
 シャープなスイングで鋭い打球が浦和球場のライトのネットにバンバン当たる。あの当時からバッティングセンスは天才的なものを持っていました」

ケージから出てきた福浦に山本は告げる。
「おまえ、今すぐにバッターへ転向しろ」
 しかし、山本にとってダイヤモンドの原石を見つけたような興奮は、福浦にとっては突然の投手失格宣告を受けたようなものだった。
「ビックリですよ。入団交渉の時に打者転向の話なんて何も出ていないのに、まだ開幕して間もない時期に『バッターになれ』ですからね(笑)。
 これがドラフト下位指名の現実なのかもしれないですけど、僕もピッチャーにこだわりがありましたから、簡単に呑めるわけもなく『1年間はピッチャーとしてやらせてください』と断ったんですけどね……」

9: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:40:05.88 ID:9q3AUt7Q0
福浦はその後も投手を続けたが、山本功児は諦めなかった。その後も福浦と顔を合わせる度に『なんだ、お前まだピッチャーやってるのか?』、『早くバッターになれ』と執拗に迫っていく。
 山本は必死だった。
「僕らコーチはシーズン終盤になるとクビを切る選手に×印をつけて監督に提出するんです。
 それを2軍監督が判断して来季の契約が決まるんですけど、当時の福浦はピッチャーのままだったら遅かれ早かれ×の選手でした。それならば早くバッターで勝負させたいという思いはありました」
 7月のオールスター前。福浦は2軍監督の醍醐猛夫に監督室に呼ばれ、正式に転向を打診される。
「結局、オールスター明けにはバッターになっていましたね。バッティングに自信がないわけじゃなかったですし、好きは好きでしたけど…でもやっぱりピッチャーとして投げたかったですね。
 それでも転向を決断した理由は……うーん、なんだったんですかね。ある意味で、山本さんに無理やりという感じじゃないですか(笑)」

12: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:41:25.62 ID:9q3AUt7Q0
◎「裏方のドラフト1位」を悟った4年目

投手として入団しながらも、1年も待たずに半ば強制的に打者に転向させられた福浦は、打者としてプロの世界で生きていくことになる。

「バッターに転向しても相当に厳しいだろうとは思っていました。他の選手を見ても、皆、体はごついですし、
 スタートがピッチャーだった分、皆よりも遅れているという意識はありましたからね。練習も特に最初は厳しかったですね。
 僕は左利きですからファーストか外野しかできないんですけど、ヘタクソでした。
 毎日、試合が終わってからショートだった大塚明と特守、特守で、2軍の内野守備コーチの佐藤兼伊知さんに、めちゃくちゃ怒られながら鍛えて貰いましたね」

その後、一塁手として3度のゴールデングラブ賞に輝く華麗なグラブ捌きはこの時に得たもの。
難しいワンバウンドの送球も容易に捌く福浦に、内野手は絶対的な信頼を寄せるまでになる。
「ワンバウンドの練習もしましたけど、あとは暴投王だった大塚明の悪送球。あれを拾っているうちに自然と上手くなりました(笑)。
 あの若い頃、同年代の奴らはみんな練習をやっていました。やっぱり、やらなければ上手くならない。それが当たり前と言えば当たり前だったということです」

その中でも福浦の練習量は誰よりも凄まじく、転向を勧めた山本功児も舌を巻いた。
「福浦はバッティングに関しては天才的なセンスの持ち主でした。あの天性のバットコントロールと、どんなボールにも決して右肩を開かず、
形も崩されない芯の強さ。僕がバッティングに関して教えた記憶はほとんどありません。むしろ僕の方が福浦に指導者として大事なことを教わりましたよ。

13: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:41:42.26 ID:4YZet+Hgd
現時点でも最下位指名の選手で一番成績残してるとか見たで
ドラフト外の闇深い選手はもちろん除外

16: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:43:07.66 ID:9q3AUt7Q0
福浦は毎日、一番最初にグラウンドに来て、最後まで残っていました。彼が凄かったのは、それをずっと休まずに続けたこと。
2軍時代だけでなく、1軍に上がってからも福浦は決して驕ることなく続けていましたからね。“努力を続けていれば何とかなる”。
そんなことを福浦は教えてくれました。1年年下のサブローたちも、福浦の練習姿勢にはかなりの影響を受けたと思いますよ」

その後、1軍出場のないまま3年間をファームで過ごした福浦がブレイクを果たすのは、プロ4年目となる97年。
元横浜監督の近藤昭仁を新監督に招聘した春のピオリアキャンプを2軍でスタートした福浦は、その部屋割りで危機感を覚える。
「キャンプで同室になった人が、裏方の人だったんですよ。これを知った時に、『ああ……俺はもう今年でクビだな。この部屋割りは?裏方のドラフト1位?だということなんだろう』って覚悟しましたよ」

ところが、運は唐突に回ってくる。97年7月5日。そこまで打撃好調だった福浦は2軍の遠征で秋田へ移動した直後に、急遽1軍から召集される。当時の2軍監督だった山本功児は言う。
「1軍に怪我人が出てね。ファーストがいないから、すぐに福浦を上げてくれって話が来て、秋田からすぐに戻したんですよ。
 福浦が幸運だったのは、その当時絶好調のピークのタイミングで1軍からお呼びが掛かったこと。
 そして、彼はどんなに緊張する場面にも揺るがない屈強な精神力を持っていた。
 僕は福浦のデビュー戦をテレビ観戦しましたけど、初の1軍の舞台にもまったく臆する気配はありませんでしたね」

 その日、1軍昇格即7番ファーストでスタメン出場を果たした福浦は、オリックスのフレーザーからセンター前にプロ入り初安打を放ち好機をものにする。
 93年ドラフト同期組の中では小野晋吾に次ぐ、遅い1軍デビューだった。
「びっくりしましたよ。秋田から飛行機で帰ってきたら即スタメンで1軍初出場ですからね。
 そこまで2軍でも飛び抜けた数字を残していたわけじゃないし、ホームランも10本くらい。
 何でだろうと思いながら、そこでヒットが打てて、続けて翌日に代打で出た時に、左ピッチャーからヒットを打てたことで、ちょっと自信にはなったと思います」

17: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:43:31.77 ID:QaN/sfa90
ロッテ地元枠あるっけと思ったら唐川とかそうか

18: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:43:33.67 ID:IeGalwe2r
他ファンだけど福浦好きだわ
応援歌も良かった
イイトコでいつも打たれてたけど

19: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:44:16.18 ID:9q3AUt7Q0
その翌日から福浦はファーストのレギュラーに定着。
8月12日の西武戦では、右中間にプロ入り初となる決勝本塁打を放つなどの活躍で、
同月27日からは3番に抜擢。突如現れた背番号70の3番打者は、シーズン終了までその座を死守し、
最終成績67試合に出場して打率2割8分9厘、6本塁打、23打点と好成績をマーク。
翌98年には背番号を「9」に改めると、開幕からレギュラーとして129試合に出場。初の規定打席にも到達した。

ちなみに、その本拠地開幕戦では母校・習志野高校の吹奏楽部が来場し、
福浦の打席で同校の定番応援である「レッツゴー習志野」を演奏し、一時期はマリンでの開幕戦の定番として定着していた。
「あの応援を聞くと、やっぱり高校時代を思い出しますよ。応援に対しては結構思い入れがあって、
 僕が初めて開幕1軍に選ばれたあの開幕戦で演奏してくれて力になりました。そういうのも地元ならではですよ。
 僕も今年で千葉に住んで38年になりますから、なおさらです(笑)」
 時代は2000年代に突入し、いよいよ天才打者の才能が開花することとなる

21: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:45:09.73 ID:vpIAkGNWK
史上最強の最下位指名はもっさんやろ

22: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:45:19.96 ID:9q3AUt7Q0
◎そして同期はいなくなる

2000年のシーズン前半、福浦は安打を量産し、4割近い打率を残していた。
そこには癌を宣告され、病魔と闘う母親に活躍する姿を見せたいという思いがあった。
しかし、福浦は初のオールスターに出場を果たすも、母はその晴れ舞台を見ることなくこの世を去ってしまう。

「初めてオールスターに出た時に、お袋が亡くなって、それ以降、打率が急降下してしまったんです。
 結局、2割9分6厘でシーズンが終了して、ギリギリ3割に届かなかった。そこで何で3割を打てなかったのかを分析し、考えるようになりました。

1軍に上がりたての頃は、2軍と比べてご飯はホテルで食べられるし、洗濯もやってくれる。
そして、お客さんのたくさん入った球場でいい試合ができるという環境面で、
『こんなにいい場所はない。絶対に残りたい』というハングリー精神で、体の細さをウエートで補うなり、
自分に足りないところを、がむしゃらに強化していましたけど、ここからは『ただやっているだけではダメだ』と、フォームにしても、
ヘッドの位置にしても、ひとつひとつのことを考えるようになったと思います」

23: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:46:18.34 ID:9q3AUt7Q0
翌01年、福浦は日本ハム・小笠原道大との最終戦にまでもつれる熾烈な首位打者争いを制し、
打率3割4分6厘で初のリーディングヒッターに輝くと、そこから6年連続で3割を記録。
05年、初の優勝を経験したシーズンでは、バレンタイン監督による、ほぼ日替わりのマリンガン打線の中でも、
唯一福浦だけが1年間「3番」に固定される絶大な信頼を得、プレーオフセカンドステージでのホークスとの激闘では決勝のホームを踏み、日本シリーズでは、満塁本塁打を放つなど勝負強い打撃で千葉ロッテの日本一に貢献。

しかし、慢性的に悩まされていた腰痛をはじめ、死球による骨折など、酷使してきた体は福浦から満足なパフォーマンスを奪っていくことになる。
 99年から03年まで1軍の監督を務めた山本功児は、当時の福浦の思い出をこのように語った。
「福浦の打撃センスを持ってすれば、もうとっくに2000本安打を達成していてもおかしくない選手ですよ。
でもね、彼はどんなにコンディションが悪くても休まなかった。
試合前にトレーナーから『福浦の腰はピークです』と報告が上がってきても、本人は『大丈夫です。出ます』と必ず言う。
体調が万全であれば、という言い訳はしない男ですからね。なんとしても2000本安打を達成して欲しいと願っていますよ」

25: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:47:00.59 ID:9q3AUt7Q0
93年のドラフト会議から20年が経った今年の秋。
同じドラフトで指名され、1年目に山本功児に一緒にバッティングケージに入れられた小野晋吾が引退を発表し、
同期は最下位で指名された福浦一人となってしまった。
「同じ釜の飯を一緒に食ってきた同期が辞めていくのは寂しいですよ。特に僕らは仲が良かったですからね。
 今ファームでコーチをやってる大塚明も引退する時に『先に行って待ってる』とか、冗談で言ってましたけど(笑)。
 引退して解説やコーチになっていく同期を見ると、複雑な思いになりますよね」

千葉県で生まれ、名門・習志野高校で4番エースを務め、ドラフト最下位指名ながら地元球団で20年間マリーンズの主軸として、
苦しい時もチームを牽引してきた福浦の不屈の闘志を、マリンのライトスタンドは“千葉の誇り”と謳う。
そして彼らだけでなく、福浦を知るすべての人が心待ちにしている。史上初となるドラフト最下位指名選手の2000本安打が達成されるその日を。
「意識じゃないですけど、これだけ言われたらやっぱり達成したいですよね。
 応援してくれる期待には応えなきゃいけない。その為には、一生懸命準備しなければならないと思っています。今までよりも、より一層ね」

24: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 08:46:56.84 ID:XtP9J7V50
近年も西野とか角中とか輩出してるしロッテは下位指名で拾うの上手いな